天龍村診療所川西先生のご勇退について

昨日(3月5日)、令和2年第1回天龍村議会定例会が開会され、村長あいさつの中でもお話しさせていただきましたが、平成元年(1989年)2月から今日まで31年余にわたって、天龍村診療所長としてお務めいただいた川西政幸先生が、諸事情により本年3月31日をもってご勇退されることになりました。

川西先生は、福島県郡山市のご出身で、弘前大学医学部を卒業後、福島県立医科大学付属病院やガーナ大学医学部への医療専門家派遣などを歴任され、当時、李明知先生が退任された後、無医村であった天龍村に平成元年2月1日に着任されました。そして、先生は31年余にわたり、天龍村診療所の医師として、夜間や休日、季節を問わず24時間体制で村民の命を守っていただくとともに、小・中学校の学校医、保育所の検診医をお務めいただきながら子供たちの健やかな発育状況を見守っていただきました。また、養護老人ホームの嘱託医や国保運営協議会等の委員として、さらには、下伊那南部保険医療協議会の理事として、まさに八面六臂のご活躍で天龍村の医療のほかに介護・保健・福祉の各分野においても多大なご尽力をいただいてまいりました。

3年前、私が村長就任のご挨拶にお伺いした時にも「先生も年だから、いつまでやれるかわかならいぞ」と福島弁なまりの先生独特の口調で言われたこともございましたが、医師の確保が困難な状況の中で、せめて私が村長職を担っている間は辞めないでほしいとお願いした記憶がございます。
そのような中、昨年7月、先生が着任当初から連載してくださっている天龍村公民館報の「シリーズ診療室(122)」の記事の最後に「長い間紙面をお借りしてきました「診療室」は、今回を持ちまして終了致します。有り難うございました。」と書かれており、村民の多くが「えっ」と思ったと思います。私も同じで、真意をお聞きしなければと思っておりましたが、お聞きすること自体が怖かったので、なかなか聞けずにおりました。その後、昨年12月上旬、毎年定期的に行っております先生との懇談会の折り、先生が「31年前、天龍村に赴任した時、家内と平岡駅から見た街並みはとても賑やかだったなぁ。だけど、今は寂しくなってしまったなぁ。」と、しみじみおっしゃったことがございました。今思えば、あの時には既に引退についてご決断されていたのだろうなあと思っております。

私が職員時代、移住定住関係の仕事をした時、都市部に出向き移住等を希望される皆さんと面談をすることがよくありました。移住希望者にとりましては、住むところ、働くところが一番気になるところでありまして、加えて、家族で移住を考えている皆さんにはさらに、学校や医療に関しても気にされる方が多く、よく質問をされました。その時には「村には学校も診療所もあり心配ありません。特に、私たちも実際住んでいて医療面で不安になったことはありません。」と胸を張って説明したのを昨日のように覚えています。自信をもって村への移住を勧めることができたのも川西先生の存在があったからであります。
また、個人的には、私の子供は先生が着任された平成元年2月生まれで、陣痛がくる直前に「顔色が悪いぞ。そろそろ生まれるよ」と言われ、先生のおっしゃる通りその日に誕生しましたので、さすがだと感心したことがありました。そんなことがあったことも関係してか、その後先生と街角で出会うと「子供は大きくなったか?」「いくつになった?」などとよく聞かれました。もしかしたら、子供の成長と先生の天龍村での歩みとをダブらせていたのかもしれません。

また、以前、先生とお話した時、赴任当初は慣れない土地での生活に大変ご苦労されたことやつまらない陰口に心を痛めたこともあったとのお話をお聞きしたことがありました。しかし、それらに屈することなく、へき地医療に命を懸け、天龍村村民のために尽力された31年余は、先生にとりまして医師人生の半分以上を捧げたかけがえのない時間であったと思います。それが短かったのか長かったのか、あるいは良かったのか悪かったのかはわかりませんが、少なくとも私たちにとりましては、私たちの健康を見守り、時には命を救っていただくなど、いくら感謝しても感謝しきれないほどのご恩をいただいた大変貴重な歳月でございました。この度の先生のご勇退、いつかこの時が来るとは思っておりましたが、いざとなるとやはり残念でなりません。しかしながら、先生にも人生がございます。4月からはどうかゆっくりお休みいただいて、時には天龍村の事を思い出しながら奥様とともに楽しい時間をお過ごしいただきたいと思います。
改めて、村を代表して心より感謝申し上げますとともに、今後益々のご健勝とご多幸をご祈念申し上げます。
本当にありがとうございました。